63. 藁にも縋る ( わらにもすがる )
追い詰められて苦しい時には、頼りにならないようなものまでも頼りにしたくなる、ということ。
【例】 「もう手の施しようが無いと言われたが、藁にも縋る思いでこの新薬を試してみた」
64. 藁の上から育て上げる ( わらのうえからそだてあげる )
「藁」は産婦の床に敷いた藁のことで、生まれ落ちたときから育て上げて一人前にすることをいう。
65. 仏法と藁屋の雨は出て聞け ( ぶっぽうとわらやのあめはでてきけ )
仏教の説教を聞かないでは何もわからない、とにかく耳をかたむけることである。
わらぶきの家の中では雨が降っても音がしないから、外に出て聞いてみなければならない。
66. 溺れる者は藁をもつかむ ( おぼれるものはわらをもつかむ )
今にも溺れようとしている者は、藁のような頼りないものでも、浮いていればそれにすがって助かろうとする。
危急の際にはどんなものにも頼るようになる、という意味。
【参考】 A drowning man will catch at a straw. の訳語。
67. 葦巣の悔 ( いそうのくい )
住居が不安定なために心配のこと。
水辺のあしに巣をつくる鳥が風や水でいつも危険にさらされた生活をしている事からいう。
68. 葦の髄から天のぞく ( よしのずいからてんのぞく )
蘆の茎の細い管の中から天を見ても、全体を見ることができない。
狭い見聞に基づいて大局を判断することはできない。見識の狭いことをいう言葉。
【参考】 「葦の髄から天井覗く」ともいう。
【類句】 管の穴から天を覗く / 管を以て天を窺う
69. 考える葦 ( かんがえるあし )
人間のことをいう。
フランスの思想家パスカルは、その著書パンセの中で「人間は一本の葦であり、自然のうち最も弱いものである。
しかし、それは考える葦である」と言った。
70. 難波の葦は伊勢の浜荻 ( なにわのあしはいせのはまおぎ )
難波(今の大阪)で葦といわれる植物は、伊勢(今の三重)では浜荻という。
同じ物でも所によって呼び名がたいそう変わることを言ったもの。
【参考】 『菟玖波集(つくばしゅう)』に「草の名も所によりて変わるなり難波の葦は伊勢の浜荻」とある。
【類句】 所変われば品変わる
71. 蓬頭垢面 ( ほうとうくめん )
汚い身なりをしていること。蓬(よもぎ)のようにもじゃもじゃに乱れた頭髪と、垢で汚れた汚い顔。
【参考】 「ほうとうこうめん」とも読む。
72. 蓬麻中に生ずれば扶けずして直し
( よもぎまちゅうにしょうずればたすけずしてなおし )
良い友人の中にいれば、自然に善人となるたとえ。
「蓬」は横に伸びる草だが、まっすぐに伸びる麻畑の中に生えると、支柱を立てなくとも自然にまっすぐ育つ、という意味。
【参考】 「麻の中の蓬」ともいう。
73. 陰陽師の門に蓬絶えず ( おんようじのかどによもぎたえず )
日が悪いとか、忌み日だなどと占いごとをかついでいると、門前の草をとることもできない。
何も出来なくなるということ。
74. 麻の中の蓬 ( あさのなかのよもぎ )
麻はまっすぐに伸びるから、曲がりやすい蓬もその中に生えれば、自然にまっすぐ伸びるようになる。
善良な友人と交われば、その感化で自然に善人になる、という意味。
【参考】 蓬麻中に生ずれば扶けずして直し
75. 桑梓 ( そうし )
故郷。郷里。昔は家の宅地の中に桑と梓(あずさ)の木を植え、蚕を飼い、器具を作ったから、桑と梓とは故郷を思い出す種となった。
76. 鳴る神も桑原に恐る ( なるかみもくわばらにおそる )
雷も桑原は避けて落ちない。これは平安朝時代、天神さまに祭られている右大臣菅原道真が、左大臣藤原時平のざんげんにより、九州太宰府に流され、その地で死んだ。
俗説ではあるが、道真の亡霊がかみなりさまになり、しばしば、京都地方へ落ちて人心を寒からしめたが自分の領地の「桑原」には落ちなかった。
そこでかみなりさまが鳴ると「クワバラ、クワバラ」と唱えるようになったという。
77. 餓鬼に苧殻 ( がきにおがら )
少しもたよりにならないことのたとえ。
腹の減っている餓鬼は力がなく、苧殻はすぐ折れ砕けるものだから、餓鬼が苧殻をふりまわしても役にはたたない。
【参考】 「苧殻」は、アサの皮をはいだ茎。盂蘭盆(うらぼん)のかざりに用い、また、迎え火などに焚く。あさがら。
78. 芝蘭の室に入るが如し ( しらんのしつにいるがごとし )
「芝蘭」とは、「芝」は瑞草、「蘭」は香草のことで、かおりのよい草、転じて善人、君子のことをいう。
このことから、芝蘭を入れてある部屋にはいっていると、香気が身にしみついて、特別にその香りを感じなくなる。
善人と共にいると、知らないうちにその人の感化を受けて、善人になるというたとえ。
79. 善人と居れば芝蘭の室に入るが如し
( ぜんにんといればしらんのしつにいるがごとし )
善人といっしょにいれば、自然に感化されて、自分も善人になることをいう。
「芝」は瑞草、「蘭」は香草のことで、霊芝と蘭(ふじばかま)。かおりのよい草。すぐれたものにたとえる。
80. 芋茎で足を衝く ( いもがらであしをつく )
うっかり(油断)して思わぬ失敗をすること。また、大げさなことのたとえ。
81. 家柄より芋茎 ( いえがらよりいもがら )
落ちぶれても家柄を自慢する者をあざけったことば。家柄よりも、食べられる芋茎の方が値打ちがあるという意味。
82. 綿のよう ( わたのよう )
非常に疲れ、体中の力が抜けてしまったように感じられる様子。
【例】 「マラソン大会に参加して、綿のように疲れて帰宅した」
83. 真綿に針を包む ( まわたにはりをつつむ )
表面はやさしいが、実際は相手を鋭く刺すようなものの言い方。針や毒を含んだ言葉のたとえ。
84. 茨に棘あり ( いばらにとげあり )
美しいものの中には、必ず危険なもの、恐るべきものが隠されていることのたとえ。
85. 茨の中にも三年 ( いばらのなかにもさんねん )
苦しくてもじっと辛抱していれば、そのうちには必ず目的を達することができる。
世の中に楽な商売や仕事はない、どこにも苦労はつきものである。
86. 荊妻 ( けいさい )
自分の妻の謙称。愚妻。後漢の妻の孟光は、質素でいつも荊釵(いばらのかんざし)と布裙(布のもすそ)を用いていた、という故事による。
【例】 「荊妻からもよろしくとのことでございます」
87. やはり野に置け蓮華草 ( やはりのにおけれんげそう )
蓮華草のような野の花は、自然の野に咲いているからこそ美しいのであり、家の中に飾っても、周囲と調和せず、
美しく感じられない。同様に、野人は野人らしい生活・環境の中にあってこそ、良さも真価も発揮できるものだ、という意味。
【参考】 「手に取るなやはり野に置け蓮華草」ともいう。
88. 千日の萱を一日 ( せんにちのかやをいちにち )
千日もかかって刈ったかやを、たった一日で燃してしまう。
長い間苦労したものを、一度にだめにしてしまうたとえ。
89. 落武者は芒の穂にも怖ず ( おちむしゃはすすきのほにもおず )
戦いに負けて逃げていく武者は、敵の目をおそれて心がおびえているので、つまらぬことにさえびくびくする。
びくびくしているとなんでもないことまで恐ろしくなること。
90. 薄の穂にも怖じる ( すすきのほにもおじる )
落武者、逃亡者などは、ススキの穂が動いてさえも、追跡者ではないかと恐れる。
心が安らかでなく、少しの事にもおじける様子。
91. 飢に臨みて苗を植う ( うえにのぞみてなえをうう )
手遅れ、間に合わないこと。
ひもじくなってから稲を植えるように、必要に直面してから準備するのでは間に合わない。
92. 実るほど頭のさがる稲穂かな
( みのるほどあたまのさがるいなほかな )
内容の充実している人ほど謙虚である。
【参考】 「実るほど頭を垂れる稲穂かな(みのるほどこうべをたれるいなほかな)」ともいう。